20250118 講演会「道部湊の人形座 史料と伝承で追う伊豆の人形浄瑠璃」

会場の「ふれあいとーふや。」がいっぱいに!

昨年11月18日、伊豆市にある静岡大学東部サテライトにて、施設近隣の本柿木という場所にある旧家に残されていた古文書から、本柿木で江戸時代中・後期に大規模な人形浄瑠璃興行がおこなわれていたという大発見について、昭和女子大学大学院生活機構学専攻 三上芳範氏よりお話をいただきました。

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その中で、江戸から人形が運ばれたのが松崎町の道部で、その道部にあった人形座の人形遣いから人形の操法を指導してもらったという記録が残っているという話を聞き、松崎町で2030松崎プロジェクトを進めている静岡大学東部サテライトとしては、ぜひこの話を松崎町で三上様にしていただきたいと思いました。三上様に快諾いただき、1月18日にふれあいとーふや。にて、三余塾チームとぷらっとカフェとの共催で「道部湊の人形座 史料と伝承で追う伊豆の人形浄瑠璃」という講演会を開催しました。

今回、人形三番叟を奉納している西伊豆町海名野神明神社の金刺様に多大なご協力いただき、西伊豆町の人形三番叟に関わるたくさんの方にお越しいただきました。

伊豆市でいただいたお話は上記ブログで読むことができますので、今回、松崎町に特化した部分のみをお伝えします。(といってもボリュームがあるのは、三上様が松崎町での講演用に内容をさらにパワーアップされているためです。)

 

本柿木の史料から分かること

安永6年(1777)の本柿木村での人形浄瑠璃興行について、本柿木の旧家に残されていた古文書の入用帳に松崎町道部の人形遣いが4人出てきます。その筆頭は「座頭(ざがしら)」です。「ざとう」と読むこともできますが、本柿木の史料の中では、目の不自由な芸能者については、名前を記していることが分かりました。よって、「ざがしら」と読むのが正しいと考えられ、道部には「座」が存在していたことが分かりました。また、謝礼の記録から人形淨瑠璃興行に必要な義太夫語り(太夫)と三味線弾き(三味線)とは別に座頭に対して謝礼が支払われていましたので、座頭の率いていた座は、人形淨瑠璃の一座であろうと分かりました。この座頭は、礼金のほかに、義太夫、三味線、人形遣いが揃っておこなう稽古である合わせ稽古の代金をもらっています。「座頭」は、翌安永7年(1778)、寛政7年(1795)の記録に出てくることから、少なくとも約20年間は、道部に人形浄瑠璃の座があったと考えられます。江戸でも人形座が20年続くというのは、経営不振や火事があったことから大変なことでしたから、道部は人形浄瑠璃興行を続けるのに良い環境があったのではないかと思います。

4人のうちの2人の人形遣いは、修善寺で温泉の接待を受けた記録があります。座頭とあわせて3人揃えば三人遣いの人形を教えることができるので、本柿木村でおこなわれていた人形浄瑠璃は、三人遣いの人形であったと考えられます。
4人のうちの1人の人形遣いは、安永7年、寛政7年、享和3年(1803)の記録にも出てくるので、26年に亘って本柿木村で人形を指導していたことになります。そうすると、道部の人形座は安永年間から享和3年までの約30年続いていた可能性があり、人形座としては全国的にも長く続いた例になります。

 

1776年人形道具の旅、式三番購入記録から

安永6年の人形浄瑠璃興行は、本柿木村では初めてのことだったので、人形の道具を揃えなければなりませんでした。記録によると、「日本橋から鉄ほうずまでだちん」とあり、これは日本橋から鉄ほうず(てつほうずのつきじ)まで「だちん(駄賃)」を支払って物を運んだことを意味します。「つづら」二つを購入した記録がありますから、江戸の日本橋にある人形町で人形の道具・衣裳を購入し、「つづら二つ」に人形道具を入れて運んだことが分かります。
「つきじ」とは湊のことで、「鉄ほうず(鉄砲洲)」から船で運びました。この人形道具は箱根の関所は越えていません、船で道部に運ばれています。それは船賃の記録から分かります。「つづら二つ」は酒代を舟方(船乗り)に払うことで「ついで」に載せてもらっています。さらに道部から本柿木村までの荷運びの「だちん」の支払記録があります。この二つの記録から、鉄砲洲の湊から「つづら二つ」の行く先が、道部の湊だったということが分かりました。

ところで、本柿木村の年貢、米や炭は三津(三津シーパラダイスの三津)から江戸に運ばれているのに、人形道具は道部に運ばれています。便利さで言えば、普段から利用されている航路・輸送路の方が便利なはずです。しかし、あえて道部に運んでいるのには理由があったと考えられます。
そもそも、人形遣いとの交流があったとは考えにくい本柿木村の人たちが、江戸で人形道具等を買い揃えています。購入の際には江戸に案内人がいたことも記録に記されています。さらに購入した人形道具等を道部湊まで運ばせたことには、道部の座頭たちの関与が考えられます。

おそらく道部の座頭たちは、江戸の人形浄瑠璃界と交流があり、村人に人形の遣い方を教えるだけでなく、道具の準備まで手当てしていたと考えられます。そして、江戸で購入した人形道具等を道部湊に運び、買ったものに誤りがないか等チェックしたのでしょう。その上で本柿木村へ運んだのでしょう。道部の座頭たちはとても丁寧に深く本柿木村人形浄瑠璃興行に関与していたことが分かります。

道部湊から本柿木村へのルートは、江戸時代には主流な街道であった猫越峠を越えるルートと、土肥から船原へ行くルートの二通りが考えられます。猫越峠は急峻だったと言われています。しかし、土肥ルートの場合は土肥まで海上交通を使った方が便利なのではと考えられますが、水運を使った記録はありませんので、猫越峠を越えるルートの方が有力ではないかと想定しています。

 

なぜ道部湊に人形座が存在したのか?

さて、江戸時代に港町に人形座がどれくらい当時あったのかということですが、湊や「津」と呼ばれる場所の中で、堺、博多、兵庫には人形座がありました。あと、江戸、大阪にもありましたが、いずれも大きな湊や都市ばかりです。大きな湊でなければ普通人形座は建ちません。そもそも人形座のプロ興業、常設の人形座を受け入れる許容力がないとできないものです。なので、当時道部湊は我々の考えている規模よりも意外と大きかったのではないかと思います。

ところが当時の道部村や近隣の人口を、例えば宗門改帳などをみて考えると、そんなに多くはないのではないかと思います。おそらく道部湊には常時住んでいる人以外の人口、例えば港湾労働者とか、船舶労働者とか、農業に従事しながら他の商売もおこなう農間渡世人等が集まって来ていたのではないかと思います。
芝居を観るための料金はそれほどでもないですが、観ている時間は働かないので収入はありません。それでも芝居を観ながら飲食をする代金を捻出できるようなゆとりがないと観客は集まりません。ある程度ゆとりのある人が多くいないと人形座は維持できません。
人がいて支払い能力があっても、芸能等への理解や興味といった一定の文化度がないとやはり人形座は成り立ちません。それなりの文化的な理解のある人がいたことが考えられます。
このことから道部湊とその近隣には、人、財力、文化度の3つが揃っているから人形座が成立し、長い期間存在し続けることができたのではと考えられます。

観客はどこから来ているのかということは、本柿木村人形浄瑠璃興行でいうと、25キロ離れた小土肥村から歩いて見に来た人がいるという記録があります。そう考えると徒歩1時間半圏内の仁科湊、田子湊ばかりでなく、より遠くの南伊豆の妻良や子浦といった風待ち港で、船が待機している間に一日つぶすか、といった人が来たことがあるかもしれません。

 

江戸時代中期~後期の伊豆半島部は江戸文化圏に属するのではないか?

ところで、伊豆半島における人形浄瑠璃の展開については、現在も残る人形三番叟を含めた伊豆の式三番、人形・人間の三番叟の展開の中で語られてきました。具体的には、
・伊豆の人形三番叟(式三番)は、淡路人形浄瑠璃の式三番と似ている
・南伊豆の子浦が上方航路の主力寄港地で、東子浦に人形式三番叟があり、そこが一番古いという話がある
駿府長兵衛という人形職人のかしらが残っているので、伊豆半島より西の駿府方面から伝わっている
駿河湾の西対岸の榛原郡吉田町の片岡に人形が多く残っている場所があるが、そこから西伊豆に興行に行った、人形をいくつか置いてきたという話が残っている
ということから、伊豆半島人形浄瑠璃・人形三番叟は上方方面からやってきたものであるというのが定説でした。

江戸方面からやってきたのではという説も考えられましたが、証拠となる史資料がありませんでした。江戸の人形浄瑠璃の影響を受けた範囲は、箱根の関所は超えられなかったというのが定説になっていました。
東海道五十三次脇街道である矢倉沢往還の街道沿いに、現在の相模人形芝居等、多くの人形芝居が分布しています。矢倉沢往還の方が、関所の取締りが箱根の関所よりも緩いことから、相模を通り、御殿場に入って、三島・沼津を芸能者が通過したと言われており、『芸能の道』等と語られてきたものです。人形浄瑠璃の伝播は、もっぱら陸路で考えられていたのです。

ところが今回、人形は海から入ってきていたことが分かりました。これは過去の研究では想定外のことで、多くの定説が修正を迫られている状況です。
また、伊豆半島への江戸文化の流入は、韮山代官江川家を通じて入って来たというのが定説になっていました。しかし、本柿木村や道部の人形座の様に、庶民を通じて伊豆に入ってきた文化の存在を見落としている可能性が出てきました。そこをつぶさに見ていくことで、伊豆半島の文化的、その文化を支えた経済的な空間が見えてくると思います。

幕末になると江戸人形浄瑠璃は、天保の改革で厳しく取締りにあい衰退し、持ち直せなかった一方で、駿府には駿河玉川座という人形座があり、勢力を増します。その結果、駿府長兵衛作の人形首が、伊豆半島西側に入ってくるようになったのではないかと考えられます。幕末には、駿河、伊豆、相模の地域(駿豆相地域)は、江戸人形浄瑠璃駿河・東海系の人形浄瑠璃との競争と融合の地として、複雑な文化的景観を形成していたと考えられます。知られていなかっただけで、伊豆半島には人形芝居をやっていたところは結構あり、義太夫節の床本(台本)も多く見つかっています。

 

どうして道部に人形遣いがやってきたのか?

さて、只今放送中の大河ドラマ「べらぼう」の初回冒頭で吉原遊郭が炎上するシーンがありました。あれは明和の大火(1772)で、なんと934の町が被災し、当時、江戸にあった4つの人形芝居小屋も、すべて焼失してしまいました。なんとか逃げた人形遣いも活躍の場がなくなってしまいました。活躍の場を失って江戸以外の土地に行った人形遣いの中に、この時に道部に来た人形遣いがいたのではないかと考えています。

明和の大火で焼失した建物に使う材木の特需が、伊豆半島では翌年の安永年間から始まり、本柿木村の史料にも、この時期に木を出荷している記録があります。江戸に木を運ぶために活気づく伊豆の湊。芸能は景気のよい場所に集まります。「べらぼう」の時代、あの時代に道部に人形座があり、本柿木で人形浄瑠璃興行があったのだ、と思い浮かべると大河ドラマの見方も変わってくるかもしれません。

 

西伊豆の人形三番叟とのつながりはあるのか?

史料の上で明確なことは言えません。ただ、『静岡県史』に収録されている海名野神明神社の人形三番叟の始まりに関する3つの伝承は、何かのヒントになるのではないかと思っています。

伝承の1つ目は、昔、仁科川の上流から流れてきた三体の人形を拾って三番叟を始め、操り方は上流へ行って教わったというものです。
仁科川の上流には猫越峠があります。あの人形道具等が越えた街道が通っていたのです。仁科川の上流を広く天城山中ととらえると、天城山中の範囲に入る本柿木を指しているとも考えられます。なお『静岡県史』では「人形の操り方を教えたのは金山を掘っていた人たち」としていますが、金山衆が人形操法を教えるというのはいささか無理があるのではと思います。

伝承の2つ目と3つ目はどちらも炭焼きの男が出てくるという伝承です。
2は、炭焼きの男が入道に相撲を取ろうと言われ、怖くなって藁人形を身代わりにした、入道は怒って藁人形をバラバラにした。逃げた炭焼きの男がその供養として人形を舞わせたというものです。
3は、「ご飯をほしい」と言ってきた山男の手に熱いご飯をのせたら、山男が「熱い!」と言って逃げていった。その後に炭焼きの男が狂って川に飛び込んで自死した。この祟りを鎮めるために人形三番叟が始まったというものです。
入道、山男共に山の神様のように扱われているように思えます。ところが、炭焼きの男は山の神への不義理を働いたり、いたずらをしたりで、大切にしていません。それで山の神の怒りを買い、前者は山を下りるしかなく、後者は狂って死んでいます。そこで海名野の人たちは、山の神による祟りを鎮めるために人形の舞を奉納したのではないかと考えられます。
山の神への不義理やいたずらとは、炭焼きや材木の出荷のために、木を伐採しすぎたことを意味するかもしれません。結果として起こった山崩れなどの災害を山の神の怒りと先人は捉えたのではないか。本柿木村でも文化年間に木を切りすぎて山崩れが起きています。また、人形を「拾って」というのは、天城山中の本柿木村から人形を買ったことを意味するのではないかと考えています。

これらは、単なる空想というわけではありませんが、あくまでも発表者の「読み(解釈)」なので、みなさんにもこのような伝承をどう読むかを考えてほしいと思います。様々な読みの中から、分かってくることも多いと思います。
なぜ、そこで人形三番叟がおこなわれ続けているのか。自然災害に対する畏れが発祥とするならば、自然への尊敬・畏怖の念を持つことを忘れてはいけないという教訓が人形三番叟になったということは大いに考えられます。そして、このような民俗芸能を地域の若い世代に伝えていく「地域の教育力」の大切さがお分かりいただけるかと思います。

 

今を生きる私たちが史料から学び考えること

人形浄瑠璃興行や人形座の維持には、お金も掛かれば、人の集まりや、地域の理解も必要です。地域の生産性の高さ、文化度の高さが問われるのです。ということであれば、伊豆は高い生産性と文化を持っていた魅力ある土地であることに気が付くと思います。そしてそのことを自分たちがどこまで認識をしているかということが大切になってきます。
「地域が衰退していく」という話を聞きますが、高齢の先達・先輩たちが、若い世代に対して、自分の土地のネガティブな話しかしていない、「こんな田舎で」とか「何もないところで」とか言うヤツですね。そのような話を聞かされていれば、若い人も自分の出身地に失望しますし、地元に期待しません。先輩の立場にある人が、自分の住む地域について知って、若い世代に伝えていくこと、その土地の輝かしい歴史も、残念な歴史も、全て抱きしめて、それでも自分の郷土が好きと言える強い心を持った若い世代を育てていくことが大切なことだと思います。人形三番叟のような民俗芸能は、若い人たちに地域の歴史や文化を伝えていくためには、ある意味とても優れた仕組みだと思います。民俗芸能を続けていことは大変ですが、やめてしまったところは人口減少が加速するという実例もあります。

道部湊はどういう水運業がおこなわれていたのか、年貢については調べられていますが、文化の流れ、人の流れについてもっと調べていかなければなりません。江戸からの話をしましたが、清水港や伊勢湾といった駿河湾岸や遠州灘における交流も追求したいと思います。
また、人形浄瑠璃については、現在は伊豆市の調査をおこなっていますが、伊豆西海岸の調査には着手できていない状況です。機会があれば調査をしたく、例えば人形遣いがこの地で亡くなっていればお墓や過去帳があるかもしれません。

海名野の伝承については、もし先述の「読み」の通り、自然環境が崩れたことにより人形三番叟が発生したとすれば、仁科川上流の自然環境の変化と下流集落の村人との結びつきを示すものと考えられます。仁科川上流域の炭焼きや自然災害の有無を調べれば、あるいは裏付けになるような事象があったかもしれません。であれば、先人が人形三番叟を通して、自然環境に対する畏怖・畏敬の念を示すことを、後世の人達に伝えようとしていたのかもしれません。そのような伊豆の人の想いや心構えを大切にしつつ、これからを生きる若い世代に伝えていかなければならないのではないでしょうか。

 

質疑応答より

Q:西伊豆町佐波神社や南伊豆町東子浦に人形の首が残っていることは有名なのに、なぜ伊豆には人形浄瑠璃はなかったという説があるのでしょうか?
A:伊豆半島西部には三番叟以外の人形首が残っていることは知られています。人形首から何を演じることが出来るかも推測できますが、史料の量がとても少ないこと。また、伊豆には中古の人形首が流通していたので、本当に人形芝居をやるために買った人形首なのかが分からないことから、人形三番叟はありますが人形浄瑠璃をやっていたと言い切ることが難しいと言われていたのです。

Q:道部の人形座について、記録が町史にも残っていないというのはどういうことなのでしょうか?
A:町史に限らず自治体史は、自分の自治体にある史資料はよく調査しています。しかし、自分の自治体以外の史料まで調査しに行くことは、よほどのことが無ければ難しいと思います。
また、町史で探しても直接的な史料が出てこない例も珍しくはありません。しかし、背景となる史料を調べていくと見えてくることがあります。本柿木村の例も、芸能史研究ではあり取り扱わない祭礼の出納帳や祝儀簿を調べてその様子が分かってきています。同様に本柿木、あるいは中伊豆にあって、道部にないということはないのではないかと思います。
猫越峠を越えるルートは、多くの歌人俳人が歩いていることもあり、芸能の道として想定できます。猫越峠を越えた先、湯ヶ島や市山という場所にも、床本を持っている家があります。

Q:道部の人形座について、本柿木村に教えに行っているということであれば、西伊豆町の人形三番叟とも交流があったのではないでしょうか?
A:具体的に示す史料がなく、道部の人形座はもうないので、残っている西伊豆町の各座の所在地に道部の人形座の記録が出てくるかどうか、調査はこれからです。ただ、村人が、人形三番叟をパッと思いついて「やろう!」ということはないので、そこには下地があって、その一つとして道部の人形座の存在があったのではと思います。
あと道部神社には人間の三番叟があり、それとの繋がりが無いか考えています。実証していくためにも史料調査の機会があれば進めていきたいです。

 

そして、最後に地域の方(松崎町桜田在住)からすごいお話が…。

子どものころ、祖父が言っていた話で、集落のある家のご先祖が人形遣いで来た家だと言っていたことを思い出しました。子どものころ聞いたときには不思議な話だと思っていた。

この話を聞いた三上様からは、
とても貴重な話です。逆に本柿木には記録はあるのに道具も残っていなく、伝承も残っていないと思っていました。でも、その話を伊豆市でしたことで、その地域の人から、「地域の〇〇という地名は人形浄瑠璃にまつわる地名なのでは?」「安永のおそらく流行り病の慰霊碑と関係があるのでは?」といった情報が寄せられました。地域の方の情報はとても価値のあるものです。
ということで、会が終わった後も、地域の方とのお話は続きました。

このお話を最初に伊豆市で聞いた時に、松崎町でも知っていただきたいと思ったのは、松崎町に高い文化があるということと、今回、西伊豆町海名野神明神社の金刺様にご協力いただき、西伊豆町の方にたくさんお越しいただいたのですが、かつていろいろな地域の方の協力があって、興行ができたということ、あと災害の伝承といったことを若い世代に伝えて、地域に誇りを持ってほしいと思いました。

三上様、どうもありがとうございました。